COLUMN まちづくり、ものづくり

そうだったんだ!名古屋の地名由来あれこれ

2021.03.31

徳川家康が名古屋城を築城し、尾張藩が誕生して以来多くの歴史を重ねてきた名古屋。そんな名古屋の市内には、珍しい地名や町名がたくさんあります。日々の暮らしの中では疑問に感じない地名や町名も、調べてみると実は意外な由来があり、おもしろい発見もあります。そんな名古屋の気になる地名や町名の由来を紐解いてみましょう。

■「碁盤の目のような町」は清洲越しで
 名古屋の中心地である今の中区と東区界隈は1610年から行われた「清洲越し」の際にできた町で、現在の丸の内、錦を中心に、久屋町筋から御園町筋までの東西に11丁、南北は堀端から堀切筋(広小路通)まで9丁に格子状に区画されました。この区域は碁盤割とよばれ、大部分は町人の居住地でしたが、北の端には町奉行所などの行政機関、南端には武家屋敷が立ち並んだとされます。

ちなみに、名古屋の城下町は日本でも珍しいもの。通常の城下町は武家屋敷が建ち、防衛上複雑な道筋となっていますが、名古屋は町人が住み、とても見通しがよい町並みです。これについては「戦をしないことが前提」など諸説ありますが、定かではありません。

碁盤割には商家が集まり、青果を扱う町人が多く住む「八百屋町」や、清洲から移り住んだ鉄砲師が多く集まる「鉄砲町」など職業を表す町名がつけられました。中には「長島町」「桑名町」など、住民の出身地を表す町名も。現在は通りの名前にその面影を見ることができます。

また碁盤割を囲むように武士の家が作られ、今の白壁や主税町界隈にあたる東には中級の武家屋敷が配されました。南の大須地区と、現在の東新町から新栄、高岳にかけての界隈は、寺院が集中的に配されています。これについては、名古屋城を守るためなど諸説があります。

■防火の役割を果たした広小路通、米倉が立ち並んだ三蔵通
ところで、名古屋のメインストリートともいうべき「広小路通」という名の由来ですが、昔は防火のために空き地にしていたところが広小路といわれたようです。1660年に発生した「万治の大火」のあとに、碁盤割の堀切筋(のちの広小路)を防火のために約27mの幅に拡張したため、「広小路通」と呼ばれるようになりました。

この広小路通の南、東西に伸びる「三蔵通」は、清洲城主の福島正則が造った3つの大きな米蔵を、清洲越しの時に納屋橋の堀川東岸に運ばれ、さらに蔵米用の倉庫が数十棟建てられたことに由来するといわれます。今ではその面影を見ることはできませんが、その当時は堀川を使って尾張藩の米が運ばれていたようです。
通りの名前にもそれぞれに由来があり、探ってみると興味深い歴史と紐付いています。

■神器と大根づくりで知られた町、御器所

名古屋の中でもとりわけ変わった地名のひとつ、「御器所」。他の地方出身の人の中にはこの町名が読めない、という人も少なくありません。「ごきそ」と読みます。昭和47年に住居表示で御器所1~4丁目ができたとき、「ごきしょ」とふりがながつけられましたが、住民の大反対で平成14年にもとの「ごきそ」に戻されました。
「熱田旧記」という本によると、御器所はその昔、熱田神宮の神事に使う土器を造っていたところからその名がついたといわれています。かつては良質の粘土も採れたといわれ、瓦や焙烙焼きを作る職人も住み、御器所付近には若宮瓦窯址も残されていたようです。
また、御器所台地一帯では江戸末期は「御器所大根」の産地でした。御器所大根で沢庵漬けが作られるようになり、明治から昭和にかけては盛んに作られていました。

■尾張鍛冶発祥の地、熱田区金山町
熱田区の金山神社付近には、承和年間(834〜48)、鍛冶職人が住んだといわれ、尾張鍛冶発祥の地とも伝えられているそうです。金山神社は、鍛冶職人であり熱田神宮の修理を任されていた尾張彦四郎の祖が創建。金属関連の企業や職人に崇拝されています。
現在、多くの人々で賑わう金山総合駅は、昭和19年(1944)に名古屋鉄道が金山橋の下に金山橋駅を作ったことに始まります。戦後に、中央線金山駅、地下鉄金山駅が開業し、平成元年に東海道線金山駅の開業と同時に名鉄の金山橋駅が金山駅となって現在地に移転して金山総合駅ができあがりました。

■名古屋の台所は木之免町と大瀬子町から始まった?!
金山の南、熱田神宮の西に広がる「木之免町」。ここはかつて海でしたが埋め立てられ、熱田神宮の神事に使われる薪を調進していました。1688年頃からは、薪の代わりに米を納めることになったことから木之免と呼ばれるようになったといいます。

また海岸だったために、大瀬子町を含むこのあたりには魚市場も開かれ、尾張藩の台所の御用達となっていました。伊勢湾をはじめ遠方からも多くの魚介類が集まり、朝夕2回の市が開かれていたそう。この魚市場が後に移転して木之免町の北、同じ堀川沿いの川並町に名古屋の台所である名古屋市中央卸売市場が開場しました。名古屋の台所は、実は木之免町と大瀬子町が始まりだったのです。

■文人墨客が訪れた「新尾頭」
熱田神宮の北の方には「尾頭町」という熱田神領の町がありましたが、江戸時代には美濃路沿いに名古屋へ向かって民家が立ちはじめ、やがて「新尾頭町」ができました。そして新尾頭の北側で美濃路から分かれて佐屋路がつくられ、佐屋路が堀川を渡るところに橋が架けられました。尾頭橋です。昭和56年に尾頭橋の西側、中川区西古渡町一帯が「尾頭橋」という町名になり、「尾頭」という地名がずいぶんと広がってしまいました。
新尾頭町はかつて文人墨客が訪れた名所だったようです。新尾頭にある妙安寺の境内は、熱田台地の西の崖の上に位置し、その絶景は名古屋三景のひとつに数えられました。境内には松尾芭蕉らの句碑も残されています。また妙安寺の北にある住吉社には名古屋を代表する俳人、圃暁、暁台、士朗の句を一石に詠んだ三吟塚があります。
肝心の、尾頭という名の由来ですが、「金鱗九十九之塵」では尾頭次郎義次の居城がこのあたりにあったからという説と、地形が烏の頭に似ていることから烏頭が尾頭となったという説が唱えられています。また「名古屋府城誌」では、尾頭橋のすぐ東にあったという尾頭元興寺の開祖、道場法師が生まれる際に、首に蛇が二回取り巻いていて頭と尾が垂れ下がっていたといわれたことが地名の由来になったのでは、と述べていますがいずれも定かではありません。

■今年の干支「牛」に由緒が深い2つの町
干支の牛にちなんで、町名に牛がつく2つの町の由来も探ってみます。
まずは瑞穂区の「牛巻町」。この町名には2つの言い伝えがあるといわれます。そのひとつは牛巻伝説。昔、このあたりで牛を巻き殺して食べていた大蛇を、大原武継という熱田神宮の神官が矢で退治したという伝説で、付近にはその大蛇を埋めたと伝えられる蛇塚遺跡も残っています。

もうひとつは、うしおまきが訛ってうしまきになったという説です。かつてこのあたりに深い淵があり、よく渦巻きが発生していたことからそう呼ばれるようになったといわれています。渦巻きは牛を巻くほどの勢いがあったとも伝えられています。

中川区の「牛立町」にも諸説あります。
ひとつは牛巻と同じくうしおまきが訛ったもの。もうひとつは、昔、牛頭天王がこの牛立の地に降臨されようとしたが、熱田に近いために津島の地にお立ちになられる時に木につながれていた牛に「立て」といわれたことからともいわれています。牛頭天王とは、神仏習合の神様であり、かつては全国に祀られていた神様。牛立町にある牛立八幡社は牛頭天王を祀り、境内には牛の石像もあります。
動物の名前がつく地名にはその動物に関連する遺跡や神社仏閣があるところが多いので、探しながら散策してみるのも楽しいものです。

■昔は海だった?!鳴海の由来

東海道五十三次の40番目の宿場である鳴海宿。今でもそこかしこに往時の街道筋の風情が残る町です。名古屋の南東部、緩やかな丘陵地帯にあるこの町がなぜ鳴海と呼ばれるようになったのか、その歴史をたどると奈良時代までさかのぼり、この頃すでに成海郷と呼ばれていたようです。地名の由来は、昔ここが海岸に近く、波の音や海鳴りが響いていたからだといわれています。やがて平安時代以降には水鳥が飛び交う美しい海岸となり、小野小町など多くの歌人に詠まれるようになったとか。その頃から鳴海と呼ばれるようになったようです。江戸時代には東海道の宿場町が成立し、俳人・松尾芭蕉もここで鳴海六歌仙と交流して俳句を詠みました。以前は鳴海にも古墳時代の豪族の墓があったとされていますが、今では大塚と赤塚など数か所が残るのみ。名古屋のベッドタウンとして発展し続ける鳴海界隈も、実は縄文時代以降から続く長い歴史が息づいています。

監修:OASIS都市研究所代表 杉野尚夫氏

「そうだったんだ!名古屋の地名由来あれこれ」をシェアする